「ここきち」が選んだ旬の人にお話を伺いました。

1944年、東京都生まれ。東京農業大学を卒業後、JA東京中央会・参事、JA東京信連・代表理事専務などを歴任。現在は東京都農林水産振興財団・食育アドバイザー、江戸東京野菜普及推進連絡協議会・顧問、NPO法人「ミュゼダグリ」理事、フードボイス評議員など多数の団体で役員として活動。講演や農業関連書籍の編纂なども含め、多忙を極める毎日。
日本の食の風景「こころのキッチン」を守り、育てて行くために、
様々な立場の、様々な人たちが、様々な活動を続けています。
今回は、大都市・東京の農地、農家、農作物を守り、失われつつある伝統野菜の復興に尽力する
江戸東京・伝統野菜研究会代表・大竹道茂さんにお会いしてきました。

江戸の伝統野菜が絶滅の危機に瀕した昭和末期。
「伝統の火を消してはならない」との思いから始めた活動。

 私の仕事は、簡単に言うと、大都市・東京の農地、農家、農作物を守ることです。その目的のため私は、江戸〜東京に伝わる伝統野菜に注目し、広くたくさんの方に東京と農業の深い関わりを知っていただくための活動を行っています。
 この地に幕府が置かれた徳川時代、江戸は政治の中心地でありながら一大農業地帯でもありました。たとえば練馬ダイコン。5代将軍の徳川綱吉がまだ群馬県館林の城主だった頃、病気療養のため練馬に居を構え、名古屋からダイコンの種を取り寄せて栽培したのがルーツであると言われています。また、今でもスーパーでよく見かける小松菜や谷中ショウガも、産地である江戸川区小松川、台東区谷中が名付けの由来になっています。他にも早稲田ミョウガ、品川カブなど、都内にはたくさんの在来品種があふれていました。
 ところが明治以降、都市開発の影響で農地は減り、外国から形、サイズ、彩りが整った野菜が大量に流れ込んだ影響もあって、江戸オリジナルの野菜はしだいに姿を見かけなくなり、三河島菜、滝野川ニンジンなどのように絶滅してしまった品種もあります。
 そこで私は、かつて江戸で栽培されていた伝統野菜を「江戸東京野菜」と名付けPRしていくことを始めました。私の考える「江戸東京野菜」とは、
 (1)通年栽培ではなく、季節限定できちんと“旬”がある伝統野菜であり、
 (2)農家が自家受粉によってタネを採種している固定種であり、
 (3)江戸〜昭和の各時代に都民の食生活を支え、食文化を育んだ野菜
という3つの条件を備えた野菜です。私がまず手をつけたことは、この3つの条件を満たした野菜がどのぐらい存在したのか、そして、現在もそのタネがどこにどれだけ残っているかを根気よく聞き取りしてリサーチすることでした。
 数多くの方々の協力を得て調べ上げた結果は『江戸東京ゆかりの野菜と花』(農文協)という一冊の本に編集され、また、都内の各神社に「この近辺ではこんな作物が穫れていたんですよ」と一目で分かる説明板を建てさせていただいたことで、広く一般の方にも「江戸東京野菜」の存在を知っていただけるようになりました。
 すると今度は、「伝統野菜を復活させよう」という、次のステップにつながる動きが、各方面から自然にわき起こって来たのです。
大竹道茂さん(江戸東京・伝統野菜研究会代表)
毎年3月第一日曜日に地元・香取神社で行われる「福分けまつり」は、2010年に11回目を迎えた。亀戸ダイコンは別名「お多福ダイコン」。その福を分けていただくため、参拝者たちは列をなす。

商店街、学校、料理人などの協力により、
各地で江戸東京野菜が見直されてきました。

 現在、JR亀戸駅のホーム脇に畑があるのをご存知の方はいらっしゃいますでしょうか。そこで育てられているのは亀戸ダイコンです。1998年、地元(江東区)の香取神社に建てられた案内板を見た商店街のグループが、亀戸ダイコンを町おこしのツールにしてくれたんですね。地元の小中学校の花壇で亀戸ダイコンが栽培され、毎年3月の第一日曜日にはそれらが香取神社に奉納されています。併せて香取神社では「福分けまつり」が開催され、参拝者に亀戸ダイコンが振る舞われているのです。この行事はすでに10年を経過し、すっかり地元に定着しました。
 この亀戸ダイコンの件を成功事例として、私は他の地域にも、伝統野菜を用いたイベントなどの開催を呼びかけるようになりました。それによって復活した江戸東京野菜のひとつに、寺島ナスがあります。
 寺島とは、現在の墨田区東向島あたりの地域の旧名です。しかし寺島という地名は、いまや地元の小・中学校ぐらいにしか残ってないんです。そこで私は、寺島の名を残す第一寺島小学校に直接かけあい、「2009年度に迎える学校開校130周年に向けて、開校当時のご父兄世代が栽培していた寺島ナスを、児童たちの手で復活させてほしい」とお願いしたんです。学校側は快諾してくださり、寺島ナスは晴れて復活を果たしました。
 また、時間軸は前後しますが、2006年、日本橋の料理業組合の会長である、高級割烹料理店『日本橋ゆかり』の野永喜一郎さんから、「江戸東京野菜を日本橋から発信し、ブランド化したい」という相談を受けました。「しかしなにぶん、生産量が少ない。なんとか生産体制を確立してほしい」と、料理界の有力者から要望が出されたことは、生産者にとって何よりも強い味方となりました。
 この、日本橋料理業組合からスタートした「江戸東京野菜のブランド化」の動きは、2009年夏頃からさらなる加速がついてきました。都内の有名ホテルのコース料理をはじめ、居酒屋、もんじゃ焼き屋などで、伝統野菜の他、地場産の野菜にこだわった料理人が非常に増えてきています。有名フレンチシェフである『オテル・ドゥ・ミクニ』の三国清三さんは地場の食材にスポットを当て、「東京を食べるディナー」と銘打ったフルコースを企画してくださいました。自ら畑を歩いて食材を厳選した三国シェフは「東京の農家は思いが強い。畑もいい」と太鼓判を押してくれました。
 このようにたくさんの方々に支えられ、徐々に見直されてきた江戸東京野菜ですが、しかしまだ、JAによる定義は定まっていません。現在、JA東京中央会は、「江戸東京野菜」を認定するための専門委員会を設置し協議が進んでいます。認定された作物には、おそらく「江戸東京野菜」とプリントされたシールが貼られ、スーパーやデパ地下の店頭に並ぶことでしょう。私はそうなる日を心待ちにしています。
総武線上り方面ホームの南奥に「亀戸大根」の立て札と畑が見える。亀戸ダイコンは江戸末期から昭和中期に栽培された代表的な江戸東京野菜のひとつ。きめが細かく、旨みが凝縮されたダイコンで、サイズはニンジンよりも一回り大きい程度。
関東ローム層の土壌が栽培に適したとされる練馬ダイコン。昭和30年代には栽培がほぼ途絶えたが、当地の篤農家によってタネは守り続けられた。平成に入り、練馬区が保存・育成事業に取り組んだことで復活を遂げた。

日本の農業の縮図が、東京にある。
未来のためにも、首都の農地は残さなくてはなりません。

 私にとっての「こころのキッチン」は、子どもの頃、汗びっしょりになるまで走り回って遊んだ後に丸かじりしたキュウリやトマトですね。半分白い「馬込半白キュウリ」を冷水で冷やしたものにかぶりついたり、においの強かった当時のトマトに塩を付けてかじったり。当時の楽しい記憶とともに、そうして食べていた風景が蘇ってきます。
 江戸東京野菜とそれを育む農地も、現在・未来の子どもたちの想い出のシーンに登場してほしいと心から願っています。
 私は、大都市・東京にも、農地、農家、農作物は必ず必要だと考えています。田畑は地産地消の拠点としてばかりでなく、子どもたちにとっての身近な自然として、雨水を受け止め地下水にする涵養(かんよう)機能として、あるいは災害時の避難場所として、失ってはいけないものだと考えます。食料の安全保障という観点からも、「食べ物なんて世界中から買えばいい」といった風潮は今すぐ改めなくてはなりません。これ以上、日本の農業を衰退させるわけにはいかない。東京の農地はその象徴なのだと考えています。
 江戸東京野菜をきっかけに、生産者、料理人、市場、農業関連研究者、そして消費者など様々な方に、東京の農業、農地について知っていただきたいと思い、その情報を共有できるように努めていきたいと考えています。

(2010/06/17)

「江戸東京野菜通信」ブログ
http://www.edoyasai.sblo.jp/
早稲田ミョウガは大ぶりで赤みを差し、香りがよく、そうめんや冷や奴の薬味、お吸い物の具、天ぷらなどにして江戸市民が好んだ野菜のひとつ。大竹氏らの尽力により、早稲田大学キャンパスに近い穴八幡宮には写真のような説明板が掲げられている。
隅田川東岸に位置する墨田区東向島の一帯は、かつて寺島村と呼ばれた土地。その名のついた寺島ナスの復活で、旧地名も再び日の目を見ることに。写真のスタンプは地元の白鬚神社に設置。同様のスタンプが島しょ部を含めたとない50ヵ所に置かれている。